「スタッフブログ」カテゴリーアーカイブ

ファミリーヒストリー記録社のスタッフによる記事です。

どうみる『光る君へ』

主任調査員の金子です。
遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします。

元日に発生しました能登半島地震で被災された皆さまにお見舞い申し上げます。
被災地域の中には弊社が過去に調査を行った地区もあり、心を痛めております。
一日も早く、平穏な生活に戻ることを祈念いたします。

私共も皆さまの心に届くような仕事を丁寧に続けて参りたいと思いますので、本年もよろしくお願いいたします。

年が変わり、新たな大河ドラマがスタートしました。
今年は今まであまり取り上げられなかった平安時代を舞台として『光る君へ』。
主人公は「世界最古の女性文学」と呼ばれる『源氏物語』の著者紫式部です。
NHKからアナウンスされている内容では、平安王朝の権力闘争も描かれるとのことで、戦国時代のような合戦シーンはないものの、人と人がしのぎを削る、激しい人間ドラマが描かれるような印象を受けています。

ご先祖調査との絡みではどうしても近い時代である幕末維新や、武家の家では戦国時代が思い起こされ、なかなか自分の先祖と平安時代の関係性を思い起こすことは多くないと思います。
しかし、ご先祖調査を進めると時々「藤原」の姓に出会うことがあります。
大化の改新の功労者藤原鎌足に始まる藤原氏は平安時代に皇室の外戚として、権勢をふるい、最盛期を迎えました。
『光る君へ』はその藤原氏最盛期の時代で、準主人公として登場する藤原道長がその最盛期を象徴する人物です。
藤原氏最盛期を描くともあって、登場人物は「藤原だらけ」です。既に人間関係が分かりにくいという声もあるようです。

藤原氏は長い歳月をかけて一族を増やしていきますが、朝廷内で出世できない者は地方へくだり、やがて武士となりました。
先祖調査をしていると、そのような武士になった藤原氏に繋がる系図を見ることがあります。
これらの系図全てが正しいとは断定できませんが、このような系図を見ると、藤原氏のブランド力というものを感じます。実際の子孫もいれば、名門藤原氏に繋がりを求めた家もあったことでしょう。

さて、今回の『光る君へ』で私が注目したのは宮川一朗太さん演じる藤原顕光です。
NHKの公式プロフィールでは「道長の一回り年長の公卿。儀式での失敗など、その無能ぶりはしばしば嘲笑されていた。しかし、競争相手である公卿たちが早く亡くなったことで、政治の中枢に残る。」とあります。
この無能な公卿・藤原顕光は、昨年の大河ドラマ『どうする家康』で大活躍した本多忠勝や本多正信を輩出した三河本多氏の先祖とされています。
江戸期の大名・旗本家の系譜集である『寛政重修諸家譜』には顕光にはじまる本多氏の系譜が載せられています。
無能と呼ばれた顕光の子孫から江戸幕府の開府を支えた本多一族が輩出したと考えると、歴史の連続性や人々のつながりの面白さを感じることができ、また違った視線でドラマを楽しめるのではないでしょうか
藤原氏の系図を片手に持ってこのドラマを見ると、意外な発見があるかも知れません。

なお、藤原氏の系図として良質なものに『尊卑分脈』があり、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されていますが、手っ取り早く知るための入門書としては『図説藤原氏 鎌足から道長、戦国へと続く名門の古代・中世』(戎光祥出版)をお薦めいたします。
複雑な藤原一族について写真や系図を交え分かりやすく解説されています。

関東大震災から100年

主任調査員の金子です。

本日9月1日は大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災から100年となります。
弊社の調査でも関東大震災で身内が亡くなったり、震災の被害で転居したといった話が出たことがあります。
また、被害が大きかった地域では役所の火災により戸籍謄本焼失してしまった所もあり、大正12年より古い戸籍謄本が取得できないといったケースもあります。

関東大震災に関する書籍が数多くありますが、まず1冊読むとするなら吉村昭の『関東大震災』が良いと思います。
吉村昭は作家ですが、徹底した史実調査や取材・検証を行った作品を数多く発表しており、この『関東大震災』も生存者への取材や証言収集、文献資料を行って書き上げられました。

特に約3万8000人もの犠牲者を出した本所被服廠跡での火災旋風の描写は生々しく衝撃的です。
また、震災直後に発生した流言飛語、それによる自警団の結成と朝鮮人殺害についても詳細に書かれています。

私が特に関心を持ったのは冒頭部分で関東大震災以前にさかのぼり、地震学者による論争があったという話です。
地震学者で帝国大学助教授であった今村恒明が、明治38年(1905)に今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告した記事を雑誌『太陽』に寄稿して、これが新聞によって煽情的に報道され、社会に混乱が起きたため、今村の先輩で帝国大学教授であった大森房吉がこの説を否定し、混乱を鎮めた「大森・今村論争」という出来事がありました。
大森は地震対策の必要性は理解していましたが、社会に混乱が起こることをおそれ、今村説を退けましたが、結果として、今村説は的中し、関東大震災が起こりました。

大森は関東大震災が起きた際に汎太平洋学術会議に出席するためオーストラリアへ出張していましたが、急ぎ帰国しました。この時、大森は病魔に襲われており、帰国すると病床に見舞いに来た今村に自身に重大な責任があると伝え、間もなく死去しました。
今村はその後、大森に代わり地震学の第一人者として日本における地震学の発展に貢献しました。

『関東大震災』は地震の被害はもちろんそこから派生した出来事や、近代日本における地震学にも触れられており、地震についてさまざまな角度から考えさせられる内容となっています。
この本に書かれていることは阪神・淡路大震災・東日本大震災はじめ大地震を経験した現在を生きる私たちにもリアリティーがあるもので、今なお克服できない課題が残されていることに気づきます。

『関東大震災』で冒頭と末尾に登場する大森房吉・今村恒明のお墓は偶然にも同じ多磨霊園にあります。
地震予知をめぐり対立した二人の学者ですが、地震の被害を最小限にとどめたいという共通の想いで研究を続けたことは確かでしょう。

関東大震災から100年の節目という今日をきっかけに、今一度地震に対する「備え」を再確認したいものです。

日本青年会議所石材部会通常総会で講演を行いました

主任調査員の金子です。

7月21日(金)に新横浜グレイスホテルで開催された2023年度日本青年会議所石材部会第2回通常総会へご招待いただき、「参拝者から見たお墓の特性~過去から未来へのヒントを探る~」と題し、1時間ほどの講演を行いました。

日本青年会議所石材部会様とは弊社吉田代表が以前講演にお招きいただくなど、ご縁があり、今回私が講師としてお声かけいただきました。

プライベートな研究と弊社の調査と双方でお墓をはじめ石造物に接することが多く、今まで様々なお墓・石造物を見てきた中で得られた知識、感じたことなど、幅広い内容でお話いたしました。

講演内容の一部をご紹介します。

日本におけるお墓は古代の遺跡や古墳などからはじまる歴史がありますが、「文字を刻んだ石碑」としては飛鳥時代~奈良時代に建てられた「日本三古碑」と呼ばれる石碑があります。

その一つ「多胡碑」がある群馬県高崎市には日本最古の碑と呼ばれる「上野三碑」があり、2017年に「ユネスコ世界の記憶」に登録されています。

「上野三碑」を巡るには上信電鉄吉井駅より無料巡回バス「上野三碑めぐりバス」が毎日運行しており、多胡碑記念館には三碑に関する資料のほかに、中国の石碑の拓本など三碑のルーツに関する資料も展示されています。

私も現地に行き3ヶ所を巡ってきましたが、確かに飛鳥時代の石碑の文字が読み取れました。

このように飛鳥時代より始まった石に文字を刻む文化が発展していき、やがて墓碑・記念碑・顕彰碑や寺社への寄進物など、さまざまな石造物が作られ、そこに文字が刻まれていきました。

自然災害が多い日本において、紙に勝る歴史史料となっていきました。

このような石造物の歴史や、私が見てきたさまざまな形態のお墓・記念碑、母の墓を建てた経験、近年のお墓の無縁化・墓じまいのことなどをお話し、その中に石材業界の皆さまの将来に何か役立つことがないかということを探る講演内容となりました。

終了後の懇親会にも参加しましたが、日本各地の石材屋さんが出席しており、中には十数代を数える方もおり、石材のこと、業界のことなどさまざまなお話を聞くことができ大変有意義な時間を過ごせました。

懇親会でも挨拶いたしましたが、その際に次のようなことを述べました。

私の仕事は過去にさかのぼって調べていく仕事ですが、皆さまは未来に向かっていく仕事だと思います。それは私が各地の石造物を見るたびにこれを作った石工さんに思いをはせるように、未来の人たちが皆さんの造ったものを見て思いをはせる。とても素晴らしいお仕事だと思います。

少子高齢化など社会問題が複雑化する中、石材業界の皆さまも悪戦苦闘をしている状況ですが、わが国において長い歴史を持った石造物の文化の奥深さの中に将来のヒントがあるのではないかと思い、エールを贈りました。

改めて、講演をお聞きいただきました皆さまに感謝申し上げます。

三井記念美術館特別展「三井高利と越後屋―三井家創業期の事業と文化―」を見る

主任調査員の金子です。

先日、三井記念美術館で行われている特別展「三井高利と越後屋―三井家創業期の事業と文化―」を見に行きました。

三井グループといえば日本を代表する大企業グループですが、その始祖となるのが、三井高利です。戦国時代に近江六角氏に仕えていた三井越後守高安は、六角氏が織田信長に滅ぼされると、伊勢国方面へ逃れ、松阪へ土着しました。高安の子高利は父の受領名「越後守」にちなみ「越後屋」の屋号で商売をはじめ、松阪で成功したのち江戸に進出し、現在に続く三井の祖となりました。

今回の特別展は家祖高利を中心に三井の創業期にスポットをあてた内容になっています。

さすが三井ともあって、茶器など美術品も数多く展示されていましたが、私が注目したのは文書類です。

三井家の来歴をまとめた「家伝記」、高利の遺書、家法の草稿など、家の歴史に関わる文書は大変興味深いものがありました。

また、帳簿である「大福帳」はよく見かける一般的な商家のものと比べて桁はずれに分厚いもので、大変驚きました。

親族の伊勢御師や三囲神社、顕名霊社といった祭祀や信仰に関わる史料も興味深いものがありました。

三井のような大規模な商家はなかなかありませんし、江戸期の商家の実態を正確にとらえるのであれば、もう少し規模の小さい商家を基準に考えねばなりませんが、武士から商人、地方から江戸という流れは江戸期の商家調査でよく聞く話であり、今回の展示でその過程がよく分かり大変勉強になりました。

特別展「三井高利と越後屋―三井家創業期の事業と文化―」は8月31日(木)まで開催されています。

郷友会の活用

主任調査員の金子です。

先日、4年ぶりに開催された東京二本松会の総会へ出席してきました。

東京二本松会は福島県二本松市出身者で構成されている会で、現会長は戦国武将丹羽長秀の子孫で、江戸時代に二本松藩主であった丹羽家の18代ご当主さまが務めています。

私自身は神奈川県の生まれ育ちですが、両親が二本松市の出身で、幼少時から年に数回帰省し、歴史に興味を持ってからは二本松の郷土史研究がライフワークとなっており、関係の深い土地となっています。

12年前に歴史関係の活動の中で丹羽さまにお会いすることがあり、東京二本松会をご紹介いただきました。

このような同郷人の集まりである「郷友会(きょうゆうかい)」は基本的にその土地の出身者が会員となるものですが、東京二本松会では2世代以降の方や、ご縁がある方でも入会できるとのことで、私も同じく2世代目の歴史仲間の方と入会しました。

会員には二本松藩士のご子孫や、昔の二本松のことに詳しい方もおり、総会の折にいろいろとお話を聞き、情報をいただくなど、自身の研究にも役立っています。

また、年1回発行される会報に会員の方の寄稿があるのですが、中には歴史に関することを書かれる方もいるので、参考になっています。

「郷友会」は都道府県単位の「県人会」がよく知られていますが、市町村単位など、さまざまな形態があり、それぞれの会則に沿って運営されています。

高齢化が進んでいる会もあり、現在では間口を広げて会員を募集している会もあるようです。

先祖調査や郷土史調査においては、現地の情報を調べるためにその土地の方や出身者の人の伝手を使うことが重要となります。

その手段として、各地にある「郷友会」にアポをとったり、入会することにより、さまざまな情報を得られることがあります。

歴史調査以外にも土地のお話や、なまりなどを聞いていると、とても懐かしさを感じますし、親や先祖の暮らした土地への想いを共有できますので、私は毎回総会に出るのを楽しみにしています。

みなさまも出身地や両親、先祖の出身地にこのような「郷友会」がないか探してみると良いと思います。

品川神社例大祭

主任調査員の金子です。
私の自宅の近くの品川神社では6月2日(金)から4日(日)にかけて、4年h振りの「例大祭」が行われています。
別名「北の天王祭」とも呼ばれ、同時に行われる荏原神社の「南の天王祭」とあわせて、旧品川宿の北品川・南品川にかけてお祭りムードに包まれます。
コロナで3年連続中止となっていましたが、久々の再開とあって、大勢の人でにぎわっています。

品川神社例大祭は6月7日に近い金・土・日曜日に行われ、徳川家康が関ケ原の戦いの戦勝を祝して奉納したという、「天下一嘗の面」をつけたお神輿が「品川拍子」にのせて北品川の町を練り歩きます。最終日には品川神社の53の石段をお神輿を担いで登る「宮入」でクライマックスを迎えます。

このような「お祭り」もご先祖調査の情報源の一つとなります。
祭礼への寄附情報や、祭礼の役割分担などの資料にご先祖の名前が載っていることがあります。お噺の役割分担表にご先祖のお名前が載っていたケースもありました。
また、ヒアリングの時にはご先祖の情報があまりない方でもお祭りのことを聞いてみると、いろいろなお話が出てくることがあり、家の歴史とその土地の「お祭り」はとても密接な関わりを持っています。

ご先祖が住んでいた土地の「お祭り」をまだ見たことがない方は、一度見てみると良いと思います。
ご先祖が毎年楽しみにしていた「お祭り」を体感することで、ご先祖の想いを感じることができると思います。

黒い壁の民家

主任調査員の金子です。

前回は岡山出張の話を書きましたが、今回も岡山での話です。

岡山の城下町は現在、岡山市の中心ともあって、近代的な街並みに変わっていますが、郊外へ移動すると、古い民家が残っており、趣のある風景をみることができました。

特に東日本ではほとんどみられない、黒い壁の民家が数多くみられました。

この黒い壁の正体は「本焼き板」という杉板の表面を焼いて炭化処理した板で、湿気や塩害に強く瀬戸内地方の民家でよく使用されているものでした。

表面を炭化することにより、燃えにくく、腐りにくくなり、耐久性が高くなります。

「本焼き板」は、この土地に住む人たちが、風土に合わせて編み出した知恵だったのです。

民家に限らず、生活様式・習慣など、さまざまなことが地方によって異なります。

ご先祖調査は一代ずつ先祖の名をさかのぼって行くだけではなく、どのような土地でどのように生活をしていたかを知ることも大事なことです。

現地に行くということは、ご先祖の生活感を肌で感じることでもあります。

岡山でみた「黒い壁の民家」からは瀬戸内に生きる人たちの生活の知恵を感じることができました。

城下町を歩く―岡山城下をゆく―

主任調査員の金子です。

先日、調査のため岡山県へ行きました。

3日間にわたりお墓の調査、古文書撮影、図書館での資料探しをしてきました。

現地調査では移動中や訪問予定の前後の空き時間もできうる限り、史跡などを見るようにしています。

特に城下町では歩いているだけで、史跡に遭遇しますので、特に下調べをせずとも、さまざまな史跡を見ることができます。

岡山は岡山藩池田家31万5,000石の城下町ともあり、街中に史跡がありました。

まず、岡山藩藩学の跡地です。

江戸時代には各藩に藩の学校である「藩校」がつくられましたが、岡山藩の藩校が最古のもので、寛文9年(1669)名君と呼ばれた藩主池田光政によって開設されました。

跡地は公園となっており、藩校の前身となる花畠会を創設した陽明学者熊沢蕃山の石碑などが建てられています。

城下には必ず藩士たちの屋敷が並び、著名な藩士の屋敷跡には石碑や案内板が設置されていることがあります。

日本三大仇討ちの一つ「鍵屋の辻の決闘(伊賀越えの仇討ち)」の当事者である渡辺数馬の屋敷跡や、2代の藩主にわたり補佐役として藩政を支え、土木事業や産業振興に尽力した名臣津田永忠の屋敷跡には案内板や石碑がありました。

城下町は村とは異なり、狭い範囲で細かく町名がつけられています。

町名の由来を記した案内板もありました。

この紙屋町はもともと麹をつくる職人が多く住んでいましたが、別の地に移され、その跡に紙を扱う商人が増えたために紙屋町となったとあります。

このように城下町の町名がそこに住んでいた人たちの職業にちなむ町名がみられます。

ご先祖が城下町に住んでいた武士や町人であった場合、城下町調査は必須となります。

また、ご先祖が農村出身であっても所属していた藩の城下町をみることによって、藩の規模が分かります。

いずれにせよ、城下町を歩くことによって、その土地のさまざまな歴史をみることができます。

現地調査は朝から日が暮れるギリギリの時間まで行います。この日も19時前まで県立図書館で調査をしていましたが、終わったとたん「腹が減った」ということで、岡山名物の「デミカツ丼」を名店カツ丼野村でいただいてきました。一見濃厚そうなデミグラスソースですが、味は意外とまろやかでした。

現地調査は体力勝負ですので、スタミナがつくものを食べるのがいいですね。

どうみる「らんまん」

主任調査員の金子です。

今月からNHK連続テレビ小説第108作「らんまん」が放送されています。

今回は植物学者牧野富太郎をモデルにした槙野万太郎が主人公で、幕末から昭和までを描くということもあり、ファミリーヒストリー的な目線でみることができるのではないかと思っています。

1週目では江戸時代の造り酒屋の様子や、商家の本家・分家の関係、当時の慣習や迷信などが丁寧に描かれていました。

2週目では万太郎が郷校名教館に通い、士族の子弟たちと一緒に学ぶ姿や、廃藩置県で領主深尾家が東京去り、家臣の塚田昭徳が帰農するという場面が描かれました。

幕末の城下町の商家、武士と商人の関係など、ご先祖調査でもよく取り上げられる場面が描かれており、大変関心を持ちながら視聴しました。

牧野富太郎が生まれ育った高知県高岡郡佐川町は土佐藩の領内で、1万石の土佐藩家老深尾家が領主となっていました。1万石=大名と考えがちですが、当時、徳川御三家や加賀・仙台・薩摩・長州・岡山など大大名の家臣には1万石以上を与えられた家老がおり、深尾家もその一つでした。これらの家には家臣がおり、本藩からみると家臣の家臣にあたり、これを陪臣といいます。ドラマに登場した榎木孝明さん演じる塚田昭徳は土佐藩の陪臣ということになります。

郷校名教館にはドラマで寺脇康文さんが演じていた池田蘭光のモデルとなる伊藤蘭林という名教授がおり、教え子には富太郎のほかに、明治政府で要職を歴任、宮内大臣を11年務め、晩年は土佐出身の志士の顕彰に尽力した田中光顕、近代土木の礎を築いた工学博士廣井勇、自由民権運動家で奈良・石川・山口県知事を務めた古澤滋がいました。

古澤滋の父南洋も名教館の教授を務めており、ドラマで池田蘭光のほかにもう一人出てきた教授が古澤と呼ばれていたので、南洋がモデルであったかもしれません。

写真は東京都文京区護国寺にある田中光顕のお墓と、東京都台東区谷中霊園にある古澤南洋のお墓です。

江戸時代は学問が発達し、藩校・郷校・私塾などが各地に設けられるようになりました。ご先祖調査でも幕末維新ごろのご先祖が藩校に通っていたとか、寺子屋の師匠であったとか、寺子屋の師匠を援助していたといった話がよくあります。

これからも万太郎が東京に出て植物学者などさまざまな人たちと出会いますが、それぞれモデルとなった人物がいますし、今のところ時代背景も丁寧に描いていますので、ファミリーヒストリー的な目線でみるとより楽しめるのではないかと思います。

墓石に込められたご先祖の想いを読み解く―町屋石からみえること―

主任調査員の金子です。

ご先祖調査で欠かせないのがお墓の調査です。

紙の文書が残っていない場合、石に刻まれた文字がご先祖の有益な情報になるケースが数多くありました。

お墓調査の場合、まずは刻まれている文字を読みとるということが重要になります。

さらに文字以外の要素からも情報を得られることがあります。

例えば、お墓の大きさや形式によって、その土地での地位などが見えてくる場合があります。

墓所の配置からも本家・分家の関係など、家同士の関係が見えてくることがあります。

それと、現時点ではご先祖調査に生かしきれていませんが、墓石の石材からも見えてくるものがあるのではないかと考えています。

さまざまな墓地へ行っているとだんだんと、地域によって石の色、形、彫り方などに特徴があることに気付きます。

以前から気になっていたのが、東京都豊島区にある水戸徳川家の墓石です。

画像は大河ドラマ「青天を衝け」にも登場した徳川慶喜の弟で、水戸藩最後の藩主となった徳川昭武の家族のお墓です。

画像ではみえにくいですが、細かいまだら模様が入っており、色は墓石の状態にもよりますが、緑や茶色が混ざったような独特な色をしているのが特徴です。

これと同じ石を同霊園内・青山霊園・谷中霊園等でみかけることがあり、これらのお墓をよく見てみるとほとんどが旧水戸藩士だったのです。

そして、水戸市へ行き、水戸藩士のお墓を調査したところ、藩士の共有墓地である常磐共有墓地や酒門共有墓地でこれと同じ石が数多くみられました。

数年前、石材屋さんとお話する機会があり、この話をしたところ、それは町屋石ではないかとのことでした。

町屋石のことを調べてみると、ズバリ「水戸藩の石」だったのです。

このことは『常陸太田市史 民俗編』に詳しく書かれていました。

常陸太田はあの有名な「水戸黄門」こと水戸藩2代藩主徳川光圀が隠居した地であり、この辺りで採掘されていたのが町屋石で、この石に注目した光圀が水戸徳川家の墓所瑞龍山に建立する墓石に採用し、藩御用の石屋亀屋に採掘を許可し、江戸期にわたり一般の採掘が禁じられていました。

実際のところ、江戸期に瑞龍山だけで使われていた訳ではなく、幕末に北海道石狩町の神社に奉納されている事例があり、この神社の氏子であった漁場の元締めの関係者が水戸藩内の那珂湊へ来た際に購入したものであったようです。

町屋石は「斑石(まだら)」という石材の一種で、町屋は採掘された地名に由来しています。

模様は笹目、べっこう、牡丹、紅葉、霜降りなどがあり、笹目が高級とされています。

水戸徳川家の墓石をみると、やはり笹目が多く使われています。

都内の霊園で町屋石の墓石を使っているのが、十中八九旧水戸藩士であったのはこういう訳があったのです。

彼らは東京に移住し、東京に墓所を設けても、水戸藩士であった誇りを忘れずに故郷の石をわざわざ取り寄せて墓石にした訳です。

そのように考える、こういった事例はほかの地域でもあるかもしれません。

墓石の石材から、ご先祖の想いを知ることができるかもしれませんね。