関東大震災から100年

主任調査員の金子です。

本日9月1日は大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災から100年となります。
弊社の調査でも関東大震災で身内が亡くなったり、震災の被害で転居したといった話が出たことがあります。
また、被害が大きかった地域では役所の火災により戸籍謄本焼失してしまった所もあり、大正12年より古い戸籍謄本が取得できないといったケースもあります。

関東大震災に関する書籍が数多くありますが、まず1冊読むとするなら吉村昭の『関東大震災』が良いと思います。
吉村昭は作家ですが、徹底した史実調査や取材・検証を行った作品を数多く発表しており、この『関東大震災』も生存者への取材や証言収集、文献資料を行って書き上げられました。

特に約3万8000人もの犠牲者を出した本所被服廠跡での火災旋風の描写は生々しく衝撃的です。
また、震災直後に発生した流言飛語、それによる自警団の結成と朝鮮人殺害についても詳細に書かれています。

私が特に関心を持ったのは冒頭部分で関東大震災以前にさかのぼり、地震学者による論争があったという話です。
地震学者で帝国大学助教授であった今村恒明が、明治38年(1905)に今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告した記事を雑誌『太陽』に寄稿して、これが新聞によって煽情的に報道され、社会に混乱が起きたため、今村の先輩で帝国大学教授であった大森房吉がこの説を否定し、混乱を鎮めた「大森・今村論争」という出来事がありました。
大森は地震対策の必要性は理解していましたが、社会に混乱が起こることをおそれ、今村説を退けましたが、結果として、今村説は的中し、関東大震災が起こりました。

大森は関東大震災が起きた際に汎太平洋学術会議に出席するためオーストラリアへ出張していましたが、急ぎ帰国しました。この時、大森は病魔に襲われており、帰国すると病床に見舞いに来た今村に自身に重大な責任があると伝え、間もなく死去しました。
今村はその後、大森に代わり地震学の第一人者として日本における地震学の発展に貢献しました。

『関東大震災』は地震の被害はもちろんそこから派生した出来事や、近代日本における地震学にも触れられており、地震についてさまざまな角度から考えさせられる内容となっています。
この本に書かれていることは阪神・淡路大震災・東日本大震災はじめ大地震を経験した現在を生きる私たちにもリアリティーがあるもので、今なお克服できない課題が残されていることに気づきます。

『関東大震災』で冒頭と末尾に登場する大森房吉・今村恒明のお墓は偶然にも同じ多磨霊園にあります。
地震予知をめぐり対立した二人の学者ですが、地震の被害を最小限にとどめたいという共通の想いで研究を続けたことは確かでしょう。

関東大震災から100年の節目という今日をきっかけに、今一度地震に対する「備え」を再確認したいものです。