「ソメイヨシノ」発祥の地

主任調査員の金子です。

東京では先週桜が満開となりましたが、私の自宅近居の目黒川も昨日あたりまでが見ごろだったようで、昼間は見事な美しさでしたが、夜の大雨でだいぶ散ってしまったと思われます。

古くから日本人に愛され続けた「桜」ですが、現在私たちが最も目にする品種「ソメイヨシノ」は、諸説ありますが、江戸後期に江戸の染井村の植木職人たちによって育成され、全国に広がったといわれています。

染井村は現在の東京都豊島区駒込のあたりに該当し、現在町名としては使用されていませんが、高村光太郎・岡倉天心など著名人のお墓が数多くある染井霊園などにかつての地名の名残りがあります。この周辺は「染井吉野ゆかりの地」として親しまれています。

「ソメイヨシノ」を作り出した人物については前述の通り、「ソメイヨシノ」の発祥自体に諸説があるため、明確ではありませんが、伊勢津藩藤堂家下屋敷に出入りしていた染井村の植木屋伊藤家の4代目伊藤伊兵衛政武が有力であると考えられています。

伊藤政武は江戸城にも出入りし、8代将軍徳川吉宗の御用植木師となり、江戸城内の植木の管理をしていました。政武は特にカエデを好み、外国のカエデを接ぎ木することに成功するなど、園芸植物の改良に功績がありました。園芸植物に関する著作も多く『草花絵前集』『増補地錦抄』などを遺しています。

政武が「ソメイヨシノ」を生み出したかはあくまで不明ですが、政武は8代将軍吉宗の命で飛鳥山や隅田川に桜を植えており、桜の植樹に功績があったことは確かです。

現在、私たちが桜を楽しむことができるのは、伊藤政武や江戸の植木職人たちの努力によると言っても過言ではありません。

伊藤政武の墓所は「染井吉野ゆかりの地」豊島区駒込の西福寺にあります。戒名に「樹」の文字が入っているところに政武の生きざまが込められているように感じました。

桜の美しさを愛でるとともに、桜の繁殖に尽力してきた人びとにも思いを馳せてみてください。

公文書館(文書館)の活用

主任調査員の金子です。

ご先祖調査で資料を探す際に、最も利用するのが図書館です。私たちも国立国会図書館、都立中央図書館をはじめ、各都道府県、市町村の公立図書館を日々利用して、さまざまな資料を探しています。

その次に利用しているが公文書館(文書館)です。

公文書館は国や各自治体の公文書を管理する施設で、閲覧室が設けられ、所定の手続きをすると公文書をみることができます。

公文書館(文書館)には公文書以外にも、個人宅から寄贈された古文書や旧大名家の文書なども保管されていることが多く、整理され目録が作成されている文書については、手続きをすれば閲覧できる場合があります。

国の場合は千代田区北の丸公園にある国立公文書館があり、ホームページで所蔵文書の検索ができ、デジタル公開されている文書はデジタルアーカイブでみることができます。

各都道府県の場合、公文書館(文書館)が設置されている県と、されていない県があります。また、市町村でも設置されている場合があり、例えば神奈川県ですと、川崎市公文書館や寒川文書館などがあります。

公文書館(文書館)という名称で設置されていない都道府県でも、実質的にその機能をはたしている施設がある場合があります。

例えば福島県の場合は福島県歴史資料館に「県庁文書」が保管されています。茨城県の場合は茨城県立歴史館が公文書館の機能を果たしています。

各公文書館(文書館)では展示場を設けている所も多く、その時々に合わせ企画展などが開催されていることがありますで、目的の文書の閲覧が終わったら、見学するとまた新たな発見があるかもしれません。

また、博物館の場合はミュージアムショップやカフェ・レストランが併設されていることもあります。

茨城県立歴史館は何度かお世話になっており、昨年10月も訪問しました。ミューアムショップに併設された「カフェ・ヒストリア」は地元のサザコーヒーと提携してしており、サザ定番の「徳川将軍珈琲」などを飲むことができます。私も閲覧が終わった後に「腹が減った」ということで、好物のハンバーガーと一緒にいただきました。文書の閲覧は集中力がいり疲れましたが、広い庭園をみながら飲む「徳川将軍珈琲」は格別でした。

ご自身で先祖調査をされている方は、図書館での資料調査がある程度進んだら、まずは対象地域の公文書館(文書館)がどこにあって、どのようにして閲覧するのか調べてみると良いと思います。

都立中央図書館が再開しました

3月16日(木)から南麻布有栖川宮記念公園内にある都立中央図書館が再開しました。

新型コロナ流行以降、時間予約制となり、昨年秋から改修工事が行われ利用制限があり、再開前1ヶ月ほどの間は休館になるなど、長い間にわたりイレギュラーな状態が続きましたが、今回の再開で、予約制がなくなり、在館600名の入館制限のみとなりました。ほぼ、コロナ前の状態に戻った感じとなりました。

早速17日(金)に諸案件の調査のために利用しました。

皆さまの中には、東京には国立国会図書館があるから、わざわざ都立中央図書館に行く必要はないだろうと思う方がいるかもしれません。

確かに日本国内の図書館で国立国会図書館の蔵書量に敵う図書館は存在しません。

しかし、国立国会図書館に蔵書がない本が都立中央図書館にある場合があります。

例えば、自治体史で、このケースがありました。国立国会図書館に蔵書がないと諦めるのではなく、都立図書館のHPで検索をしてみると、都立図書館に蔵書がある場合があります。

さらに、国会図書館の場合、参考図書以外の大半の蔵書は閉架、あるいはデジタル閲覧となりますが、都立中央図書館の3階には自治体史・伝記・全集が開架となっており、本の背表紙を見ながら探すことができます。特に巻数の多い自治体史や全集の場合は手にとって、パラパラめくった方が探しやすこともあり、国会図書館にはない魅力があります。

もちろんデジタル化による効率の向上化はめざましいものがありますが、まだまだ不便に感じる面もあり、ご先祖調査においてはデジタルとアナログの両輪を回していくことが重要なのではないかと感じています。

都立中央図書館は平日午後9時まで開館しているのも魅力的です。午後から行ってもゆっくり利用できますし、都内勤務の方は仕事終わりにも利用できます。

私も17日は久々の通常開館になったこともあって、時を忘れて調べてものをしていたら、19時を過ぎていました。終ってみると、「腹が減った」と思い、近くに昨年オープンしたモスバーガーの新業態であるチーズバーガー専門店mosh Grab’n Goで食事をしました。なかなか食べ応えがあり、明日への活力になりました。

都立中央図書館の最寄り駅は地下鉄広尾駅となりますが、周辺にはオシャレな飲食店も多いので、図書館で集中した後は、食事を楽しむのも良いかもしれませんね。

戸籍謄本翻訳のお客さまの声、届きました。

 戸籍謄本翻訳のお客さまの声、届きました。

 先日のNHK「ねほりんぱほりん」で戸籍が無い方のご苦労を聞き、とんでもない話だと思いました。助けてあげてほしいですね。

 さて意外に多い戸籍謄本翻訳のご依頼。ルーツ調査の基本ですね。ご感想が届き、スタッフもお役に立てて喜んでおります。ありがとうございました。

郷土の偉人を追って~朝河貫一博士展を見る~

主任調査員の金子です。

12日(日)に両親の故郷福島県二本松市へ行ってきました。

二本松は中世から続く城下町ともあって、多彩な歴史がある街です。戦国時代の伊達政宗との戦い、幕末戊辰戦争での二本松少年隊士の悲劇など、今でも語り継がれる歴史があります。

私は年2~3回は二本松を訪れ、二本松の人たちの足跡を追うべくお墓の調査や資料調査をライフワークとして続けています。

今回は昨年オープンしたにほんまつ城報館内の二本松歴史館で開催されている企画展「二本松で生まれた世界的歴史学者・朝河貫一博士~偉業の足跡~」をみるために訪れました。

朝河貫一博士は旧二本松士族の家に生まれ、福島尋常中学校へ進学し、特に抜群の英語力を持ち首席で卒業しました。東京専門学校(現早稲田大学)に進み、大西祝・大隈重信・徳富蘇峰・勝海舟らの渡航費援助によりアメリカへ留学。

ダートマス大学に編入学し、卒業後はイェール大学大学院歴史学科に入学し、その後、ダートマス大学講師に迎えられました。

日露戦争が勃発すると、日本の正義を英米国民に説き、ポーツマス条約締結時に日本側のオブザーバーとして参加しました。その後、イェール大学に迎えられ日本文明史を担当し、歴史学助教授に昇進しました。

このころ、日本では日露戦争の勝利に浮かれて軍国主義が台頭していました。朝河博士は歴史学を学んできた見地から、これを警告し、このままいくと世界から孤立すると訴えた『日本の禍機』を執筆します。残念ながら、これは太平洋戦争の予言書となってしまい、朝河博士の憂いは的中することになります。

歴史学者としては中世法制史を専門として、鹿児島の入来院家に伝わる文書を調査した『入来文書』で世界的な評価を得ました。日本とヨーロッパの封建制度を比較したもので、当時ほかに例がない研究でした。これら東西封建制の比較研究の実績により、昭和12年(1937)には日本人初のイェール大学の正教授となりました。

昭和16年(1941)、日米に開戦の危機が迫ると、開戦を回避するために、ルーズベルト大統領から昭和天皇へ送る親書の草案を作成しました。これを基に作成された親書が日本に届いたのは、正に真珠湾に向けて攻撃機が飛び立ったその直後でした。朝河博士の願い空しく日米は開戦しました。

開戦後、アメリカ在住の日本人・日系人の多くが強制収容されるなど、行動の制限を受けましたが、朝河博士にはこれまでの業績と思想への敬意がはらわれ、行動と学問の自由が保証されました。朝河博士は終戦後の昭和23年(1948年)8月11日に74歳で亡くなりました。

訃報は「現代日本がもった最も高名な世界的学者が逝去した。」と世界中に打電されました。

今回の二本松歴史館での企画展は朝河博士生誕150年を記念したもので、パネルの展示が多いですが、朝河博士の生涯をコンパクトにまとめており、福島中央テレビで放送された30分間の番組も上映され、朝河博士の業績をよく理解できる内容となっています。ゆかりの地マップも配布されており、これは出身地ならではのことです。

私の先祖は二本松の一般庶民の家であり、朝河家と何か関係があったという話は聞いたことがありません。しかし、朝河博士の生家跡は私の母方の菩提寺のすぐ近くにあり、朝河博士のお墓がある金色墓地には私の父方の曽祖父のお墓があります。子どもころにお墓参りにいくと、すぐそばに朝河博士のお墓があり、そのころはどういう人物かは分かりませんでしたが、何か偉い人のようだとの認識はありました。

 

このように、郷土の偉人をしることは、先祖調査により深みを与えてくれます。郷土の偉人と自分の先祖は同じ町のどこかの道ですれ違っていたかもしれない。そう考えるとその土地のことをさらにしりたくなりますね。

皆さんも是非、郷土の偉人のことも調べてみてください。

なお、二本松歴史館企画展「二本松で生まれた世界的歴史学者・朝河貫一博士~偉業の足跡~」は3月26日(日)まで開催されています。

『寛政重修諸家譜』をみながら「どうする家康」をみる

『寛政重修諸家譜』をみながら「どうする家康」をみる

主任調査員の金子です。
みなさん、今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」はご覧になっているでしょうか?
大河ドラマは今年で第62作を迎え、国民的ドラマとして定着した感があります。
大河ドラマがきっかけで歴史を好きなった方も多いのではないでしょうか?かく言う私も小学生の時にみた「独眼竜政宗」をみてから歴史が好きになり、現在に至っています。

個々のドラマの評価はさまざまで、個人の思い入れもそれぞれですから、今作の評価には触れませんが、主人公が徳川家康ということで、私なりの楽しみ方をみつけて楽しんでいます。
今作には既に数多くの徳川家臣団が登場しています。彼らはこの後、江戸幕府が開かれると大名や旗本として、明治維新まで続くことになります。もちろん途中で改易・無嗣断絶した家も相当数いますが、これら断絶した家も含めて、大名・旗本家の系譜は江戸後期の寛政期に編纂された『寛政重修諸家譜』に系譜が収められています。
当社の調査でもご先祖が旗本というお宅の調査で、何度もお世話になっている『寛政重修諸家譜』。源平藤橘などの本姓ごとにまとめられ、各家の出自、略歴、葬地、家紋などさまざまな情報が書かれています。

たとえば、2月26日に放送された第8回「三河一揆でどうする!」では、家康の家臣で一向宗の信者である土屋長吉が主従関係と信仰の間で揺れ動き、家康をだまして本證寺に誘い込んだものの、家康がまさに殺されそうになる瞬間に長吉が身代わりとなって刺され、その後息を引き取るというシーンがありました。
土屋長吉は諱を重治といい、『寛政重修諸家譜』にはこの土屋重治の家系も詳しく書かれています。
『寛政重修諸家譜』では通称を惣兵衛・甚助と、長吉という名は書かれていません。ドラマの描写は創作ですが、『寛政重修諸家譜』の記述では上和田砦にいた大久保忠勝・忠世の援軍として駆けつけ、奮戦し敵を一旦撃退しましたが、さらに敵に加勢がきてその際の戦闘で戦死しています。
これには異説があり、では一揆方についていた長吉が、上和田砦に援軍に来た家康が危機に陥っている所をみて、一揆方から家康方に転じ矢をうけて戦死したともいい、ドラマではこの異説を基に描いたものとみられます。
『寛政重修諸家譜』を読み進めると、土屋重治の子孫が複数の旗本として続いていたことが分かります。さらにその一つの土屋利陽にはじまる家の葬地をみると、浅草本願寺の長敬寺とあります。子孫も浄土真宗(一向宗)を信仰したことが確認できます。

このように、ドラマに登場する家臣団の実際の姿、家族構成、子孫のその後が『寛政重修諸家譜』で確認することができます。
ドラマを見終えたら『寛政重修諸家譜』で気になった人物のことを調べてみると、よりドラマが楽しめるのではないでしょうか?
なお、『寛政重修諸家譜』は全22巻ありますので、購入しないで図書館で読むと良いと思います。索引が4巻ありますので、姓か諱か通称で該当人物を探し出し、本編を開くと良いでしょう。

動体視力!

動体視力!

西国分寺にある都立公文書館。
公文書が画像になって所蔵されていますが、数百ページのうちのどこに目的の事柄が載っているかわからないので、早回しで日付、村名を見つけ出します。動体視力が問われます((+_+))
何とか発見!!

駅からの途中に東山道武蔵路跡があったり、自然に恵まれた武蔵野台地が体感できる場所かなと思いました。

巨大クジラと「鯨塚」

主任調査員の金子です。久々の投稿となります。

1月に大阪市淀川の河口に現れた「迷いクジラ」の話題がありました。普段は深海にいるマッコウクジラが河口に現れたとあって、大きな話題となり、「淀ちゃん」という愛称までつけられました。残念ながらその後、迷いクジラは死亡が確認され、その遺骸は紀伊半島沖に沈められました。

このニュースをみて思い出したのが、近所の東品川利田神社にある「鯨塚」です。

寛政10年5月1日(1798・6・14)、前日の暴風雨にもまれて、一頭の巨大クジラが品川沖に迷い込みました。品川浦には漁師が数多く住んでいましたが、クジラを捕獲したことのある漁師はいませんでした。目の前にきたクジラをみすみすと逃したとあっては品川漁師の恥だとして、船を出し、音や大声で、天王洲内側まで追い込み、これを捕獲しました。

この話は江戸中に伝わり、江戸近郊からも見物人がやってくる騒ぎとなりました。

さらにこの騒ぎは江戸城にも伝わり、幕府より将軍徳川家斉の上覧に供するよう命じられ、巨大クジラは浜御殿まで運ばれ、将軍家斉の上覧するところとなりました。

その後、巨大クジラは品川浦の漁師に返されましたが、「将軍様上覧のクジラ」ともあり、ますます人気となり、連日多くの見物人が訪れ、瀧沢馬琴がこのことを基に『鯨魚尺品革羽織』という戯作を書くなど、クジラブームに沸きました。

やがて、巨大クジラの死骸が異臭を放つようになったため、油を搾って、残った骨は利田神社境内に埋められ、その上に「鯨塚」を建て供養しました。

鯨塚01

 

鯨塚02

もちろん、当時の人と、現在の私たちでは価値観が異なり、時代背景も異なりますので、同一にはみられませんが、珍しい巨大クジラをみて大騒ぎになる様子や、憐れみを持つ感覚は、今も昔も通じるような気がしました。

神社の境内をみると、このような変わった石造物に出会えることがあります。また、狛犬・玉垣・鳥居などには寄進者の名前が刻まれており、たいていは地元の氏子たちによるものです。利田神社にも寄進者の名前が刻まれた石造物があり、かつて巨大クジラをみた住民たちの子孫ではないかと想像がふくらみます。

利田神社石造物

先祖調査ではこのような神社の境内にあるものをくまなく確認します。そうすると、当時の人の暮らしの一端がみえてくることがあります。

巨大クジラの一件をみても、昔も今も人の行動や感性は案外変わらぬものだなと思いました。

なお、この「鯨塚」の顛末は現地にある案内板にも書かれていますが、『品川の口碑と伝説』により詳しい経緯が書かれています。